応募をご検討中の皆さまへ

株式会社セルナビの代表、佐藤です。
「親と上司は選べない」とよく言われますが、価値観や考え方が合わない上司の元で働く辛さは私も過去に経験したことがあります。
「応募してみたいけどどういった上司の下で働くのかわからずいまいち不安...」
皆さんのそんな不安を少しでも払拭できるよう、私の職務経歴書を公開させていただきます。
人様に自慢できるような経歴では全くないのですが、お読みいただければ何となく将来の上司のことを少しでも知っていただけるのではないかと考えております。
まだ存在する会社ばかりなので、文中では社名などの情報は全て伏せさせていただきますが、こちらがご応募にあたってのご参考になれば幸いに存じます。

←読まずに前のページに戻る

学生時代のバイト

私は社会に出る前は、ピザ屋、食品加工工場、チラシ配り、建設作業、印刷工場、宅配屋、調理、ボーイ、清掃人、配膳人など、短期も合わせると恐らく30職種は越えるほど様々なアルバイトを経験しました。
ただ、ほとんどの方が同じだと思いますが、高校時代のバイトの目的は単にお小遣いを稼ぐことだけでした。 仕事そのものには特に興味がなかったので、勤務終了間際には時計を見ながらそわそわしだし、終了時間と共に即座にタイムカードを押して退社、ということの繰り返しだったように記憶しています。
ですが、大学生にもなると徐々に働く行為そのものに楽しみを見いだすようになってきます。
私が学生の頃はバブル経済がはじける直前だったので、どこの職場もまだ人手不足でした。
そのため、バイトが社員の代わりに働くのは当たり前で、当時を思い出すに、かなり責任が伴う危うい立場の仕事をどこのバイト先でも簡単にお願いされていたように思います。
不思議なもので、仕事が楽しくなってくると勤務の終了時間はそれほど気にしなくなってきます。
また、バイト代も出ないのに勤務終了後にバイト同士で集まって仕事を効率的に進める方法や、仕事職場環境を改善するための議論などに興じることすらありました。
特に思い出深いバイト先は大学3年生から1年半ほど働いてた食品加工工場の夜間勤務でした。日給が異常に高かったこともあり、そこには学生バイトだけでなく様々の人達が集まっていました。
大学を途中でドロップアウトしてフリーターになった人達も多くいましたし、一度は社会人として勤めていたもののブランド品や自動車等のローンでクビがまわらなくなり、泣く泣く会社を辞めた人などもいました。
そのような人達から社会人としての様々な経験や失敗談などが聞けることが、当時の私にとってはとても新鮮でした。

初めての就職先

大学を卒業し、最初に就職した会社は神奈川県内にてエンジン付き産業機械や建設機械などを専門に扱っている商社で、そこで私はセールスエンジニアの職に就きました。
新人のうちは自分の担当客がまだいないので、県内を営業車でまわりながら飛び込みで新規顧客を開拓することが日課でした。
飛び込み営業というと一般的には辛いイメージしかないかもしれませんが、私の場合、仕事はかなり楽しんでやっていました。
私は昔からオートバイや自動車の趣味を通してエンジン分解やら修理やらと日常的にやってましたので、自分が売る商品の特徴やメカニズムを把握することにあまり苦労しませんでした。
また、学生の時から自動車やバイクの中古パーツやら車両本体やらの個人売買を数多くこなした経験からでしょうか。他人にモノを売ってお金を稼ぐという営業の仕事にも最初からスムーズに入っていたと記憶しています。 物を売り買いする行為が元来好きなのかもしれません。
ですが、仕事そのものは好きでしたが、会社に対しては常に不満を持っていました。
創業50年を越える社歴の長い会社だったため社内には古い慣習が多く、その点が正直あまり好きではありませんでした。
当時は会社の良い面についてはあまり見ておらず(気づかず)、私は上司に営業指針や社内規則、勤務環境などについて改善提案ばかりをしていた記憶があります。
しかし当然のことながら、入社してまだ日が浅い新人の提案など会社が簡単に受け入れるわけもなく、そのため私はいつもモンモンとした思いの中で日々仕事をしていました。
「自分は周りより仕事ができる」という根拠の無い自信を持っていて、「先輩や上司から学ばせてもらうという」謙虚な姿勢がかなり欠けていたのだと思います。 ですが、当時は若さと勢いだけで生きてましたから、私はそんなことには全く気づきません。
そんな折、ご縁で都内のとある会社の代表の方をご紹介いただく機会がありました。
そして、その方と話しているうちに、自分は今の会社から出たほうがもっと活躍できるのではないかという考えを持つに至ります。
そして私は、その後のことはあまり深く考えずに、その会社の誘いを受けて転職することを決心しました。

甘かった転職

私は約3年半勤めた商社を後にし、人生初の転職をすることになりますが、その後すぐ自分の考えの甘さに気づくことになります。
その会社はシャンプーや化粧品などの樹脂性容器を製造するメーカーでした。
前職とは業界的な慣習や営業先へのアプローチの仕方が異なるので、そこに慣れるまでは少し苦労しましたが、コツをつかめばそのあたりで苦労することは徐々に無くなりました。
しかし、自分の努力だけでは何ともならないこともありました。
直属の上司からパワハラをほぼ毎日のように受け続けていたのです。
当時はパワハラという言葉は無かった時代ですが、営業の世界では体育会ノリの会社がまだ多く存在していました。
前職もどちらかというと体育会系の職場でしたので、軽い暴言を受けたり頭を小突かれたりする程度のことはよくあったのですが、ここであまり詳細は書けないのですが、転職先でのパワハラの程度は、当時の常識に照らし合せても明らかに度を越していました。
比較的鈍感な私ではありますが、そのような日常に身を置き続けていることで、やがて心に変調をきたしてしまったのです。
今でもたまに夢で見るほど覚えているのですが、ある日、会社の最寄り駅を降りた私はしばらく足が棒のようになって動かなくなり、出勤することができなくなりました。
その時は「あれ?なんでだ?」とただただ混乱しかなかったのですが、後になり、無意識に心が会社への出勤を拒んでいた事に気づきました。
恐らくあの時は鬱病か軽いノイローゼになっていたのだと思いますが、「このまま続けると自分がおかしくなってしまうかもしれない」という恐怖感を持ち、最終的に私は会社に退職を申し出ることになります。
心が完全に壊れてしまう前に退社できてよかったと今では思っていますが、この当時の私は、他人と一緒に仕事をすることが怖いとさえ感じるほどにまでなっていました。

気が付けば無職に

会社を退社した直後は、本当に無気力そのものでした。
可能な限り人には会いたくなかったし、ましてやどこかの会社に就職するなんて気はまったく持てず、気が付けば私は無職になっていました。
最初こそ何もしない境遇に陥ったことに喜びすら感じていました。ですが私は徐々に暇をもて遊び始め、やがては仕事もせずに毎日プラプラしてる自分に対して罪悪感すら持つようになっていきます。
当時は週休2日の会社はまだ少なく、土曜日は出勤するのが当たり前の時代でしたから、会社員の時はたった2連休が入るだけでも大喜びしていました。
ですが不思議なもので、以前にはあれほど長い休みを心待ちにしていたにもかかわらず、1ヶ月も休んだ頃には罪悪感を持つようになってしまったのです。
私が社会に出る少し前には「24時間働けますか?」というキャッチフレーズのCMも当たり前に流れていた時代でしたし、私だけでなく、恐らく当時は長期休暇を取ることに対して罪悪感を持つ人は今以上に多かった時代だったかもしれません。

フリーターへ

そんな折、前々職の営業時代に自分の担当顧客だった造園土木会社の社長から「いつでも遊びにおいで」と言われていたのを思い出し、のこのこ事務所に遊びに行ったことが私の次の転機になりました。
大変お世話になった会社のことをこう表現するのは少し憚れるのですが、、、そこは雑木林の中にあるドロとカビの臭いがする小さなプレハブ小屋の事務所で、従業員も口数が少ないガラの悪い男達ばかり。
お世辞にも「ステキっ!」とは言えない職場環境ではあったのですが、そこの従業員さん達と会話をしているとなぜか大変居心地が良く、安心することもできました。
また、ここの社長は私より少し年上なのですが、私にとっては「アニキ」と呼びたくなるような存在でもあり、自分が営業担当だった頃はこの方と話したいが為にここへ足を運ぶこともよくありました。
その社長に自分の境遇を話したところ、「暇だったらウチでバイトしてよ」と暖かく声をかけてくださいました。
私も近隣住人の目を気にしながらコソコソする生活には嫌気がさしてましたので、このお誘いを受けてバイト作業員として雇っていただくことになります。
お蔭様で、無職からフリーターに晴れて昇格できた私ですが、仕事は屋外での土木工事だったので体力的にはかなりきつかったです。
ですが、基本的に他人との共同作業ではあるものの、任された範囲で一人で行う作業も多く、私はこの仕事を通して徐々に心のリハビリをすることができたように思います。
また出先となった建設現場が「日産スタジアム」や「横浜動物園ズーラシア」「海の公園」など、その後の有名施設ばかりだったのですが、日々大きなモノが出来上がっていく現場の様子を自分なりに見て楽しんでもいました。
ただ残念なことに、この仕事は入りが不定期だったので、すぐに交通誘導員(警備員)のバイトも新たに始め、並行して働く生活になりました。
ちなみに何故それほどバイトを頑張っていたかというと、生活以外に別の目的がありました。
フリーター1年目の終わりあたりから、CG(コンピューターグラフィックス)の勉強のためにデザインスクールへ通い始めることとなり、その学費を稼ぐ必要が生じていたのです。

CGデザインスクールへ

昔から絵を描くことが趣味だった私は、高校の時は美術部に部長として在籍していました。 その流れで大学も美大に進学したかったのですが、「絵では食えない」という当時の世間の常識と、金銭的な事情により断念した経緯がありました。
ところが時代は変わり、パソコンの普及により簡単にデジタル上で絵が描けるようになり、またインターネットの普及によってCGのニーズもかなり高まっていました。
そんな折、CGデザインスクールというものがこの世にあることを知ったのですが、色々と調べている中で某スクールの宣伝文句「未経験者でもゲームクリエーターに!」が目に飛び込んできまして、「ゲーム好きで絵が得意な自分ならゲームクリエーターになれる!」という単純な考えに至り、それが自分の次の目標になっていました。
フリーターになってからは、昼間は2つのバイトを掛け持ちし、夜はCGデザインスクールでPhotoshop、3Dソフト、Webサイト制作などの勉強をし、スクールが終わった夜中や休みの日はひたすら自分のデザイン作品を作る毎日でした。
入校してしばらくたった頃に、知人がWeb制作の在宅仕事を紹介してくれたので、不定期ながらもその仕事もたまにしていました。
発注元のWeb制作会社は残念ながら既に解散していますが、その仕事を受けていなかったら、今ほどWeb系やサーバについての知識を持てなかったのは間違いなく、その点では非常に感謝するお仕事でした。
恐らくそのままWeb系の業界を目指すこともできたのですが、私は最終的にはコンシューマーゲーム系の会社にCGデザイナーとして就職することを目標にしていたので、夜中に作ったCG作品をあちこちの開発会社に応募作品として送っていました。
ちなみに、そのスクール入校後に初めて知ったのですが、コンシューマーゲーム系のデザイナー求人は、美大出身の新卒者、もしくはゲーム業界での勤務経験を持つ中途者だけを募集しているところがほとんどでした。
私は美大も出てませんし年齢も既に30歳が目前でしかも業界未経験者というオールドルーキー(候補)でしたので、その真実を知った時の衝撃は相当なものでした。
当時はWebデザイナーは未経験者でもとりあえずの就職先は多くあったので、周りからは「Webのスキルがあるならそっちで食ったほうがいい」と助言をいただく機会が多かったのですが、私は一度決めた進路を変えるつもりはありませんでした。
昼のバイトが体力仕事なので夜にはまぶたが重たくなり、毎日眠さと戦う日々でしたが、書類選考に落とされてはまた新しい作品を作り直し、また落とされては作り直す、そんなことの繰り返しがしばらく続いていました。
そして、少なくとも30社くらいは落とされたある日のこと、私は都内のとあるゲーム開発会社からようやく内定をもらうことができました。
気がつけばいつの間にかフリーターではない自分がいて、しかもその職業は憧れだったコンシューマーゲーム開発のCGデザイナー。
2年半ほの短い期間でしたが、一つの目標に向かってがむしゃらに励み、その目標を達成したこの時期のことは、その後の自分にとって一つの大きな自信になりました。

都会でキャンプ生活

念願がかなってようやくゲーム開発会社に就職できた私ですが、勤務初日の感想は「エアコンの効いた部屋の中、椅子に座って仕事ができるって幸せ...」でした。
最初に勤めた商社は営業で外回り、次の会社はメーカー営業だったので外回りの他、樹脂工場のラインへ応援派遣されることも多々ありました。
土木作業も警備員も常に屋外仕事でしたし、常にエアコンが効いた部屋にいられる職に就いたのは実はこの会社が初めてだったのです。
しかしながら、入社してすぐに「寝袋を持ってきたほういい」と言われたことには驚きました。
従業員数は100名以上のそこそこの規模の企業だったのですが、見渡してみれば開発スタッフのほぼ全員が自分のデスク下に寝袋常備という信じられない光景が飛び込んできます。
デスクの引き出しを開ければカップラーメンが何個も常備されている人も多く、「あそこのスーパーで買うと安いから昼休みに1ケースくらい買ってきなよ」とも言われました。
まあ実際のところ、その会社で働いていた時は寝袋とカップラーメンは大活躍でして、会社に住んでいると錯覚するほど毎日のように会社に泊まりこんで朝昼晩とカップラーメンをすすることが多かったです。
だいたい朝10時くらいから夜中の0時くらいまで働いて、近くの銭湯に行ってから会社戻ってデスクの下で寝袋に入り込むわけです。
寝る前に懐中電灯の明かりで読書(漫画)などをしていると、渋谷に近い大都会の喧騒の中にいるにもかかわらず、キャンプをしているかのような不思議な感覚になることがたまにありました。
因みにどうしてこのような勤務状態になってしまうかと言いますと、3DCG制作ではパソコンのCPUパワーを多く必要とするのですが、当時のパソコンはスペックが今のように高くなかった為、レンダリングが終わるまでかなりの長い時間待っている必要があったのです。

訪れた転機

しかし、そんな職場に身を置いていても、私は毎日の仕事が楽しくて仕方ありませんでした。
いわゆる「会社人間」ということになるのかもしれませんが、とにかくCGでご飯が食べられることの喜びが何よりも勝っていたのです。またこの開発会社には当時、有名ゲームタイトルの続編の開発案件が多く入っていて、そのような誰もが知ってるゲームタイトルの開発に携われることも魅力的でした。
やがて月日が流れ、ゲーム開発の仕事にも慣れて3DCGチームのサブリーダーを任されるようになった頃、リーダーをやっていた先輩が私のところにある話を持ちかけてきます。
「佐藤さん、会社を辞めて二人でフリーランスになりませんか?」
私以上に会社人間だった先輩が突然そんなこと言い出すので、この時は本当に驚きました。
先輩によると、とあるプロジェクトで使用する3D素材を外部のフリーランスデザイナーに依頼したところ、当時の社内デザイナーの給与の何倍もの額の請求書が届いたとのことです。で、それを見た先輩は「独立したら儲かる!」という単純な考えに至ったわけでした。(90年代頃の3DCGの外注単価は非常に高かったのです)
でも、私のほうも都会のキャンプ生活にもいい加減疲れてきていましたし、先輩と一緒に新しい事にチャレンジするのも面白そうだったので、この誘いに乗ることにしました。
「よくあの時は二つ返事で簡単に誘いに乗ったなあ」と後になって思うこともあります。ですが当時の私達は、仕事そのものにはやりがいは感じていたのですが、週6~7日勤務で会社宿泊が当たり前。 にもかかわらず残業代は1円も出ないし給料も大特価だったので、その職場に対しては既に未練を持たなくなっていました。
また、私達には現場全体がデスマーチ(修羅場)に陥る経験を何度もかい潜った経験がありました。
特に私たちのチームが最後に携わった某タイトルの開発は、その後にWikipedia上で開発詳細が詳しくまとめられてしまうほど炎上したプロジェクトだったので、その経験上から「何の仕事をやったとしてもアレ以下にはなるまい。。」と、怖いモノ知らずになっていたことも背景にありました。

フリーランス時代

ゲーム会社を退社した後の私達は、共同でデザインユニットを立ち上げました。そして、3DCGムービーやモデル制作、Webサイト制作、イラスト、ロゴ、商品パッケージデザイン、紙媒体デザインなどできる仕事は何でも手がけることにしました。
先輩のほうはデザイン畑一筋の人だったので最初は仕事が入るか心配してましたが、私は以前が営業職だったので「仕事は自分から取りに行けばなんとかなる」という考え方でそれほど心配はしていませんでした。
実際のところ、当時は「IT革命」、「マルチメディア」といった言葉が常に経済紙を賑わせていた時代だったので私たちの仕事は山のようにあり、最初の顧客がつくと、その紹介の紹介の紹介、、という形でどんどん顧客が増えてゆき、新規客の獲得に苦労した記憶はありません。
そこそこ順調な状態が続いていた私達でしたが、やがて転機が訪れます。
元々、先輩と自分はデザインの方向性も異なってましたし、また私達はそれぞれが別々の顧客に対して営業をしていたこともあり、デザインユニットで受注する必要性が徐々に薄くなってきました。
そして丁度その時期、とあるお客様から私のところに法人化を勧めるご相談が来ました。そのお客様のところでは個人相手の場合は発注金額の上限があったのですが、受注予定だったプロジェクトの規模はその金額を超えていたのです。
そのご相談を受けて、もちろん私は即座に法人化を決意します。
この時、先輩と一緒に法人化するという選択肢もあったのですが、先輩の意見を聞いたところ「まだしばらくは個人でやってたい」という返事だったので、私は自分だけで法人を設立することにしました。
因みに余談ですが、先輩はこのデザインユニットをそのまま法人化した結果、現在は弊社以上に成功を収めるに至っています。
もちろん先輩とは今もたまに一緒に仕事をするほど非常に良好な関係で今日に至っていますが、デザイナーとしてはほぼ素人だった私が短期間でフリーランスとして独立するところまで行けたのは、この先輩の存在が非常に大きく、また独立のきっかけを頂いたという点でも、この方との出会いには本当に感謝しています。

会社設立

プロジェクトのスタートが目前だった為、私は会社の設立は急ピッチで進める必要がありました。
当時は丸一日休める日は2ヶ月に1回あるかどうかという多忙な日々でしたが、自分の勉強も兼ねて会社の設立の手続きは全部一人でやることにしました。
まずはネットで調べてみたのですが、当時はまだGoogleも存在しておらず、今ほどWebサイト数も無かったので、「会社 設立方法」というキーワードで検索しても、そのようなニッチな情報を細かく解説してくれるサイトはほぼありませんでした。
仕方ないので私は書店で「会社設立」の手引き本を購入し、そこに書かれている通りに一つ一つ手続きを進めていきました。
ですが、買ったその本には大事なところがあまり細かく書かれていなかったのでかなり苦労しました。
例えば、法人の設立には定款と呼ばれる組織の根本規則を記した書面を作るのですが、法務局に提出する前に「公証役場」という所で定款の内容を事前に認証してもらう必要がありました。
買った本には「作った定款を公証役場に持っていけ」といったことだけが記されていたのですが、私は「役場」という名称からして区役所のようなところだと勝手に思いこみ、事前連絡もせずに最寄りの適当な公証役場に足を運びました。
実際に訪ねたところは区役所というより小さな個人事務所のようなところで、確かに事務所の構えからしてもいきなり訪ねて行っても良い雰囲気は微塵も感じられませんでした。そして案の定「事前予約も無くいきなり来られても困るので予約後にまた来てください」と窓口の方に門前払いされてしまいます。
ですが次の予約日が1ヵ月以上先になると聞いて私は焦ります。
と言うのも、この時既にプロジェクト開始までの残り時間がほとんど無かったからなのですが、会社の設立が遅れはそのまま契約書締結と発注の遅れに直結するのです。
ところが、そのやり取りを後ろで聞いていたこちらの公証人の先生が「今は少しだけ時間あるんでもしよければ見ようか」と温かく招き入れていただけたのは本当に幸運でした。
結果的に、こちらの先生からは定款作成の細かいアドバイスを色々いただき、その後の法務局での手続きもスムーズに通すことができました。
会社の設立にあたってはその他にも苦労が色々ありましたが、その後私は平成12年の年末に自分の会社の登記簿謄本をようやく手にします。
これが弊社、セルナビが誕生した瞬間でした。


「出会い」が人を変え、会社を変える

会社を設立するまでの職務経歴をざっと要約してみましたが、これまでのことを振り返ると、人との出会いが様々な転機につながってきたことに改めて気づかされます。
そして会社設立以降は間違いなくスタッフ達との出会いが会社の転機に大きく影響してきました。 これまで、スタッフが「挑戦したい」「担当したい」と言ったことは可能な限り実現する方針でやってきましたが、その結果として私が1人でデザイン会社として始めた弊社は、気が付けばWebシステム開発、サーバ管理、コンシューマーゲーム開発、スマートフォンアプリ開発など、今日では幅広い業務を行うまでに成長しました。
もちろんそれは決して私だけでは実現できなかったことで、全て弊社スタッフ達のお陰であることは言うまでもありません。
私は大勢が参加するビンゴゲームで一度も賞品を当てたことがなく、スーパーの福引でもポケットティッシュより上の景品はもらったことがないほど日常的な運を持っていない人間だと自覚しています。
ですが、今日の結果を見るに、私は人との出会いの運だけは非常に良かったようです。
もちろん次に入社するスタッフとの出会いも、きっと良い出会いになるものと信じています。

長い文章にもかかわらず、最後までお読みいただき誠にありがとうございました。

佐藤 昌平(さとうしょうへい)
神奈川県横浜市出身。座右の銘は『先義後利』。趣味は野球観戦、硬式テニス、バイクツーリング、キャンプ、Tilt Brush、DIY、船(二級小型船舶操縦士)等。好きな球団は横浜DeNAベイスターズ。自身が2013年に立ち上げた社会人テニスサークル(非営利団体/登録メンバー約160人)の代表も務めている。
←前のページに戻る